始めに、前話の補足をさせていただきます。コメントの方でそもそも妹が何故いるのか疑問だという方がおられました。(コメントありがとうございます!)

私と妹は異父兄妹で7つ程年が離れてます。未婚の状態で母が妹を儲けて、未婚のまま現在に至ります。いきなり妹が出来たと言われ、数ヵ月後に病院へ行かず自宅で当時10歳の姉に手伝わせながら産んだというのも、それはそれで怖かったですが。

補足はこれで終わらせ、本日お話に移らせて頂きますね。

タイトルで3.11と表記していたので気分を悪くされる方もいるかも知れません。申し訳ないです。東日本大震災の数日後の話ですので、苦手な方は閲覧をお控え下さい。

私の家も岩手の沿岸部、と言っても海岸から5.6km程離れていたので被害は揺れた時に倒れて壊れた物と、湯沸しから落ちたお湯で私が水泡が出る火傷をした程度でした。

祖父の家も海抜100m程高い場所に位置し、山を削った土地に家を構えていたので地震被害は皆無、代わりに漁業用の小屋や船が流されてしまいました。しかし、叔父夫婦の方はあと一歩で誰かに居なくなるかも知れない。そんな逼迫した状況になっていたそうです。

本当なら地名は出すべきでは無いのですが、真実だと告げる為、今回の話の状況をわかり易くする為に書かせて頂きます。

陸前高田市、海抜が低い平地に待ちが出来た所なので中心街やその周辺は波でごっそりと持っていかれました。そんな街中にあった叔父夫婦の一軒家も例外無く基礎を残して消え去りました。

叔父は仕事でそのお嫁さんと2歳になる息子、70を超える義父は病院へ行っていたので
津波からはぎりぎり逃げ延びたそうです。当日、翌日は避難所の指定をされていた小学校で夜を過ごしており、2日後には母と叔母が迎えに行き、微々たる量ですが衣類と毛布を避難所へ置いて200km程離れた祖父の家へ連れて帰りました。

地震から2週間程は電気も水道も止まっていたので物資の調達でとても忙しかったですが、3週間にもなれば電気も回復し、所々インフラも整備され始め、情報網の混雑もスムーズに流れ始めてました。

叔父夫婦は3週間の間に、内陸にある義父の実家へ行っており、腰も落ち着いた頃でした。

テレビに中継で今の陸前高田市の状態が流れたんです。それを見た母がそこへ行き、今どこまで復興してるか状況を比べたいと言い、私達兄弟も同行する事になりました。妹は幼く、長い道のりだと酔ったりして可哀想という事で、叔母に預けて朝4時頃に200kmの道を出発しました。

やはり道中も悲惨なもので通った事のある道も虚無感に包まれていました。救援物資を積んだトラックが歪んだ路面でバランスを崩し転倒し、あたり一面に缶ジュースがばら撒かれている光景はよく覚えています。

本来ならば2時間半で着く所ですが渋滞や路面の不具合もあり、3時間以上走ってようやくたどり着きました。

道路が整備され新しい道も出来ていた所もありましたが、着手したばかりだった為、崩れた家々や道路を塞いでいる大型漁船もあったり。海の方なんかは防波堤も何もなく、ただ穏やかな海が広がっているだけ。悲壮感が押し寄せ鳥肌が立ちました。

町中を見たり、以前あった叔父夫婦の家の跡を訪ねたりして午後3時位になった所でしょうか、そろそろ帰る事になり、来る時に通った道を戻ろうとしました。

その時、姉が海を眺めながらぽそっと言いました。

「まだ炊き出しとかしてるんだね。」

どこでやっているのか海側を見ましたが誰もいません。

「何処でやってるの?」

私が訪ねます。「ほら、あそこ。」と海の一点を指差しながら教えますが、やはり見えませんでした。

母も兄も、もちろん私も見つけられず、一旦車を止めて探します。姉の言う方向は波が引いた後の水溜まりから出た湿気のせいで陽炎が浮き出ている位で何も無いまっさらな土地でした。

母が「何処にもいないけど?どこで何やってるの?」と少し気色ばんだ声で尋ねます。

「あそこの島みたいな所でやってるじゃん。黒っぽい煙見えないの?ほら、皆して手も振ってるし。」

陽炎が海岸を映して島のように見えなくもないですが、人も煙も何一つありませんでした。それに、姉の指差す方向が少しおかしかったんです。島なら海を真正面に向けるのに、少し上を向いて指してるのに気が付きました。

姉以外の家族全員、同時に正体を悟ってそそくさと車に乗り込み、姉も数拍置いて座席に座りました。

「何、どうしたの?行ってみるの?」

「もうそっち見んな。」

姉の疑問に対して母はハンドルをしっかりと握って運転しながらそう答え、兄は助手席に乗っていてちゃんと顔が見えなかったのですが引き攣っているのが分かります。私は私で車酔いに耐えてたのですが先程の状況で別の気持ち悪さが出ていました。

姉は以前からそうかそうでないか区別がつかない程はっきり見えるらしく、何も無い所で人を避ける動作をする事がありました。本人は天然な所がありますが、傍から見たら危ない人だと思いますし、私も2.3割は疑ってしまう気持ちもあるので断言は出来ません。

ですが、あの時の説明は今見てる様な、作り話では出来ないような現実感が強いものでした。車に乗り込み、逃げる様に走り出したのは、姉が「手を振ってたけど招いてる人もいる。誰呼んでんのかな?」と言った為でした。

呼ばれているんだと思い、母はこの場からすぐに立ち去る為、法定速度なんか無視して即座に帰りました。私達の住んでいる市内に2時間を切って帰ったのですから、とんでもない速さで来たのでしょうね。

道中は車が左右に強く揺れる以外は何も無かったですが、帰宅後に姉はインフルエンザと溶連菌の同時感染で10日前後寝たきりで、命も危なかったとお医者さんは話していました。

病気から回復した後、特段変わった事も無く、その年は何もありませんでした。向こうに連れて行かれそうになったのか、薄着の罰なのかはこの際置いておき、その人達は何だったのか今でも疑問に思います。

唐突過ぎて亡くなった事に気が付かなかったのか、何かを伝えたくていたのか。もしかしたら同じ境遇でも生き残った人への羨望で引きずり込もうとしてるのか。考えると、とても複雑な気持ちになりました。

これでこの話はおしまいになります、長いだけの駄文を読んで頂き有り難うございました。見方によっては不幸自慢の様な文面になってしまい申し訳ありません。

因みに叔父夫婦は現在は県内の某河童が有名な所で何事も無く暮らしています。次の話はその翌年に起こった話でもしたいと思いますね。

それと、今書き込んでいる時に思ったのですが4月頃の気温が10℃に届かない曇りの時でも、陽炎って起こるものなのでしょうかね。


投稿者:愚wraith